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壽山堂は、筆職人大田十郎(研精)が、決まった形の筆を問屋に納めていくことにあきたらず、筆のつくりや書き味について、筆を使う人の生の声を聞き、それぞれの人の手に合った筆を作りたいという長年の思いを実現させるために、1969(昭和44)年、長男大田健司(現壽山堂代表者)と共に立ち上げた筆の店です。

このページでは大田十郎の生涯と、十郎と上田桑鳩先生との出会い、そして「研精」という言葉の由来についてご紹介致します。

筆職人大田十郎(研精)の生涯 ―上田桑鳩先生との出会いと「研精」の由来―

1913(大正2)年 10月10日
大田十郎は、筆職人大田十兵衛の次男として広島県安芸郡熊野町に生まれる。

父十兵衛の祖父は熊野でも指折りの筆職人の一人であり、十郎はその四代目にあたる。

1920(大正9)年 (7歳)
母の死に伴ない奈良市高畑丹坂町に移住し、奈良市立飛鳥小学校に転入する。

1926(大正15)年 (13歳)
飛鳥小学校卒業と同時に父十兵衛を師として筆作りを習い始める。

この頃、父十兵衛は筆職人としてすでに名人と仰がれた人で、昔ながらの職人気質の持ち主であった。午前3時に仕事を始めると食事を挟んで夕食時まで机を離れることは無かった。そして、明日の仕事に差し支えの無いように夕食後の夜なべ仕事は絶対にしなかった。十郎もこれにならい、その後六十余年この職人の生活のリズムを生涯崩すことは無かった。
大田 十郎
緒締めをする在りし日の十郎
1989年(平成元年)75歳
1929(昭和4)年 (16歳)
習い始めて3年が経ち、この頃、十郎は全工程を一人でできるようになり、学童用の廉価な筆ではあったが、問屋に納める筆を作れるようになっていた。

当時の筆職人は、筆を使う側の身になって書き味を考えるというようなことはあまり無く、筆の形さえできれば、すなわちそれが書ける筆であると教えられていたので、みんな、決まった形の筆をいかに早く正確に、一本でも多く作れるかということに傾注していた。

しかし、十郎の父十兵衛は律儀な性格の人で、仕事の手を抜くことは考えず、いつも使う人の身になって筆を作れというのが口癖であった。が、当時の十郎はまだこの言葉のことを考える余裕はなく、やはり、いかに早く一本でも多く筆を作るにはどうしたらよいかということばかりを考えていた。

1935(昭和10)年 (22歳)
結婚し、筆職人として独立する。

1937(昭和12)年頃 (24歳頃)
この頃十郎は奈良の筆問屋あかしやの仕事をしていたが、そこで当時辻本史邑先生の筆を作っていたあかしやの筆頭職人竿谷市太郎氏に出会い、彼の作る筆に自分の筆には無い独特の味が有ることを見出していた。名人竿谷市太郎の作る筆は十郎の目から見ても、筆の先が柔らかく自由でしかも力があった。同じ原料を使って同じ筆を作っても、穂先がまったりとして味があるのである。このことは十郎にとって驚きであった。同じ原料を使って同じ形に作っても、書く側にとっては書き味のまったく違う筆になっているのかもしれないのである。

負けず嫌いで研究熱心な十郎は市太郎を目標にして、市太郎の仕事を窺い、良いところをどんどん取り入れて自分のものにしていった。また、ほかの先輩職人の所へも仕事を見せてもらいに回り、その長所を貪欲に吸収していった。こうして十郎は、自ら学び取った奈良筆の製法と、父に叩きこまれた熊野筆の製法のそれぞれのよい所を、巧みに使い分け、あるいは融合させて独自の製法を築いていったのである。

この頃から、十郎は筆を使う側の立場を考えるようになり、書き味ということに注意を払うようになっていった。そして、問屋の言われるままに、決まり切った筆を作り続けていく事に、何かもやもやした小さな疑問を抱くようになるのである。だがこの頃はまだ、問屋に筆を納め続けていくしか仕方がなかったし、筆を使う側の書家の先生方にしても、ほんの一握りの先生を除いては筆に対して注文を付けるというような時代ではいまだなかったのである。

1942(昭和17)年 (29歳)
愛知県豊川海軍工廠へ徴用に採られる。

1943(昭和18)年 (30歳)
徴用解除。

1944(昭和19)年 (31歳)
奈良航空整備学校に勤務。

1945(昭和20)年 (32歳)
終戦により退職。この年より壽山堂の屋号で再び筆職人として独立し、大和郡山の筆問屋博文堂を中心に奈良や京都の問屋に筆を納めるようになる。

1947(昭和22)年 (34歳)
小中学校の毛筆習字の授業が廃止になる。

1951(昭和26)年 (38歳)
文部省が小学校の毛筆習字の授業の復活を決める。毛筆業界に活気がよみがえり、筆職人たちも活発に動き出した。

この頃から、奈良や、故郷の熊野、豊橋などから十郎を慕って数人の職人が十郎の門を叩くようになっていた。来るものは拒まない十郎はすべて弟子に迎え、自分の持っているものをすべて教え込んでいった。そして、多い時には一度に十五人ほどの弟子がひとつ屋根の下に住み込むような事もあった。その後晩年に至るまで途切れることなく数多くの弟子を育て上げ、今も各地でその弟子たちは活躍している。

1951(昭和26)年 (38歳)
博文堂の仕事をするようになって数年が経ったある日、十郎は博文堂の主人草可博央氏に呼ばれ、「羊毛でペランペランの筆を作ってくれ。上田桑鳩先生の注文だ。」(草可氏の言葉のまま)と注文の依頼を受けた。上田桑鳩先生とはどんな書家さんなのだろうか。また、ペランペランの筆とはどんな筆なのだろうか。その筆を使ってどんな字を書くのだろうか。

初めて聞く筆に困り果てた十郎は、竿谷市太郎はじめほかの職人達の所を訪ね歩いたがもちろん誰もそのような不思議な筆のことは知る筈もなかった。ペランペランと言う言葉から腰が柔らかくてしかも穂先に力のある筆であることはだいたい想像ができた。しかしその筆は自分が今まで作ってきた筆とは全く違う常識外の筆であった。筆と言えば穂先がしなやかで自由が利き、腰に行くほど順に弾力がある円錐形の形をしたものが基本的、理想的である。腰に力を持たせ、形を整えるために、筆の先端部分となる命毛に、いろいろな種類、あるいはいろいろな長さの腰の毛を混ぜ合わせて筆を作っているのである。

今回はこの常識を捨てて腰毛の無い、命毛だけの筆を作らねばならない。十郎は細光鋒を先によく寄せて(そろえて)腰毛を入れない筆を作ってみた。しかし、出来あがった筆はやはり腰のしっかりした従来の筆と変わりなかった。

当時の細光鋒は今の毛とは違い、切っ先はあくまでも鋭く尖り、先端の透明部分(いわゆる飴色の部分)は細くてその間隔は長く、それより下は急に太くなって、腰に行くほどさらに太く弾力が出てくると言うような毛であった。すなわち、一本の毛がすでに筆の形をなし、それを束ねただけで、腰毛を入れなくとも、腰に弾力のある筆の形がある程度までできてしまうのである。これでは桑鳩先生の言うペランペランの筆にはならないのである。

十郎は家にある細光鋒をすべて選りなおし再検討してみた。そしてついにこの筆に見合うと思われる数房の原毛を発見した。それは先端は細くしかも鋭く尖り、飴色部分に続く腰の部分もこれと同じように細くなっているというような毛であった。(現在の細光鋒や細微光鋒の中にも根元の細くなった毛は多く見られるが、残念ながらすべて切っ先が止まった、先の尖っていない病的とも言える毛ばかりである。)さっそく、十郎はこの毛を、穂先に力を持たせるためにできるだけ先に寄せて(そろえて)一本の筆を作り、博文堂に納めた。

試作の筆を受け取った上田桑鳩先生は完全とは言わないまでも自分の意に添ったこの筆が気に入り、早速、奈良に足を運んで十郎に会いその事を伝えた。その後何度も奈良を訪れた桑鳩先生は十郎にさらに細かく指示し、注文を加えた。十郎もそれに応え、いろいろと工夫をしながら改良を重ね、桑鳩先生の意図した筆は完成に近づいていくのである。

そして、桑鳩先生は最後に難題を持ち出した。穂先の毛を一本残らず寸分の狂いも無く完全に先にそろえて欲しいと注文したのだ。これは技術的に相当困難な注文であった。さきほども述べた通り、当時の細光鋒は今の毛と違い、切っ先は鋭く尖り、先が遠かった(飴色部分が長かった)。しかもこの筆に使う細光鋒は大量の原毛の中から選りすぐった綿のように細い毛である。

さらにその上、十郎は脱脂の工程を作業可能な必用最低限に押さえていたのである。筆作りの工程で、原毛の脂肪分を取り除いて墨含みを良くするために、原毛に熱を加えて灰で揉むという工程がある。この工程はよく揉むほど後の作業はしやすくなるが、揉み過ぎると脂肪分が必用以上に抜け、羊毛などの柔らかい毛は毛の表皮に傷が付き、筆にした時かさかさした感じが残る。また墨を付けても羊毛のきめの細かい繊細な味わいが失われ、毛が締まって筆が開かず太い線が出にくくなる可能性があった。十郎はこれを嫌い、この工程を必用最低限に留めたのである。このため、毛はふわふわとして扱いにくく、これを先に寄せ切ることは至難の技であった。
この時、十郎を助けたのが右の写真にある寄せ金(手金)と呼ばれる毛を先にそろえる道具であった。この道具は今でこそ各地で見られるようになったが、本来は十郎の故郷熊野に伝わる道具である。当時奈良やその他の地域では寄せ金は使用されず、毛を先にそろえる時、毛を掌の上に載せたり、あるいは平らな板の上に載せて、毛先を別の板で叩き先にそろえていた。普通の筆を作るには毛を完全に先にそろえる必要は無く、かえってそろえ過ぎると悪い場合もあるので、掌や板の上で十分なのである。しかし毛を完全に先に寄せ切るとなるとこの寄せ金が必要になってくるのである。
毛を先に寄せる
寄せ金と手板で羊毛を先に寄せる

この寄せ金と呼ばれる道具は金属板をただ湾曲させただけの道具で、使いこなすと非常に効果を発揮するが、使いこなすにはまた相当の熟練を要する道具でもあった。小さい時から父にこの技術を叩きこまれた十郎はこの道具を使いこなす達人であった。そしてこの時、寄せ金は、十郎の技術とあいまって今までにない効果を発揮し、この筆を作るのになくてはならない重要な道具となった。しかし、この寄せ金をもってしても、この毛を完全に寄せきるのはさすがに難しく困難を極めたが、十郎は根気良く寄せ金と格闘し、何とか自分でも納得のいくまで毛を寄せきることができた。そしてここに一本の筆が完成したのである。
手板と寄せ金
十郎の使った手板と寄せ金

一週間ほど前から十郎の家に泊まり込み寝食を共にして十郎の仕事を見守っていた桑鳩先生は今まさに完成し、緒締めの終わったばかりのその筆を筆管にはめ、その場で書き味を確かめた。そしてその書き味に満足し感激した桑鳩先生は十郎の労をねぎらい、できあがったばかりのその筆で半切に横書きで「研精不倦」と揮毫し、十郎に「研精」の号を与えた。

ここに上田桑鳩先生の提唱する前衛書道の創作に欠かせない表現用具としての「先寄せ長鋒羊毛筆」が完成したのである。

この後、この筆は急速に広まり、その後の長鋒羊毛筆の隆盛へと続いて行くのである。しかしその後、中国から入ってくる羊毛は急速にその材質を劣化させ、細光鋒までもが毛筋は細いが先の悪い、力の無い毛になってしまい、今日、この「先寄せ羊毛筆」を作ることは不可能となり、幻の筆となったのである。

<上田桑鳩先生書「研精不倦」>
上田桑鳩先生書「研精不倦」
試行錯誤の末ようやく完成した筆に満足した桑鳩先生は、その筆で即興的に上の書を揮毫し十郎に「研精」の号を与えた。
(上の画像をクリックして頂きますと大きな画像がご覧になれます。)


十郎は桑鳩先生と出会い、筆を作らせてもらうという、この貴重な経験を通じて、単に筆職人としての自信を深めただけでなく、筆を作る側の人間と、筆を使う側の人間とが協力して一本の筆を作るという理想的な筆作りを体験させてもらい、その喜びを実感したのである。

その後、博文堂には、今まで主流であった翠軒流の兼毫筆に代わり長鋒羊毛筆の注文が殺到し、十郎も様々な先生の注文でいろいろな羊毛筆を作らせてもらい、勉強させてもらった。しかし、問屋が中に入っての先生方との付き合いに何か歯がゆさを感じる十郎は、桑鳩先生と一緒に筆を作ったあの当時のことが懐かしく思い出されるのであった。

1969(昭和44)年 (56歳)
この年、十郎は問屋に筆を納める仕事をやめ、長男大田健司とともに自ら、筆の店「研精筆本舗 壽山堂」を開業し、長年の夢であった書家の先生方との直接取引きを始めるのである。

1973(昭和48)年 (60歳)
筆職人としては初めて筆だけを展示した第一回個展を東京のサンケイ会館で開く。
その後、5回にわたり個展を開く。

この時会場に足を運んで下さった先生方と今も取引が続く。

1978(昭和53)年 (65歳)
伝統的工芸品産業功労者として通商産業省(当時)より表彰される。

この後も筆職人としては全く素人の3人を最後の弟子として筆職人に育てあげる。その内のひとり御堂順暁氏は現在、大分で実家の寺を継ぎ、住職の傍ら筆工房《楽々堂》(クリックして下さい)を開き筆職人の道を歩んでいる。また、残りの二人仲谷省三氏と今堀純は今も壽山堂の仕事に携わり、壽山堂を支えている。

1990(平成2)年 9月19日 
心筋梗塞により急逝 (享年76歳)



2004(平成16)年 8月
この夏、十郎の最初の弟子のひとりで義弟にあたる伝統工芸士大藤喜代一氏が亡くなった。大藤喜代一氏は十郎のあと長く博文堂の筆の製造に当たった。奈良の筆職人がまたひとり減り、寂しくなるばかりである。


現在の壽山堂
現在の壽山堂は、十郎(研精)の長男大田健司のもと、十郎の最後の弟子のひとり今堀純が壽山堂の仕事場で筆の製造にあたり、また、もうひとりの十郎の最後の弟子で、独立して吉野山に工房を開く仲谷省三氏にも筆の製造を依頼し、大田十郎が完成させた壽山堂の筆のつくりと書き味をかたくなに守りながら、皆様のご要望に少しでも近づき、それぞれの皆様の手に合った筆を作るために研究、努力致しております。

なお、筆管の製造は、大宇陀町の萬谷浩司氏に、また筆銘の彫刻は奈良市の藤井和美氏にお願いしております。その他、奈良市の皆様や、熊野町の皆様には原材料の調達、一部製品の製造等いろいろとお世話になっております。

壽山堂の仕事場
現在の壽山堂の仕事場風景
(羊毛を選別する)




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